不思議な因縁から

歴史人物鑑定
05 /28 2015
我が先祖;不運の貴公子「足利直冬」の生涯。

2011.01.02 Sunday - 10:36 comments(0) -

[第1164回](小凶)・・・1月2日(大凶)

『 足利尊氏の長男でありながら、2代将軍になれず、”数奇な運命”で生涯を終えた源氏の貴公子「足利直冬」、これが私の大先祖に当たります。』
 なぜ、正月にこの話題を・・・? と思われるでしょうが、昨日の元旦に近くの「由加神社」(足利尊氏の戦勝祈願神社)に参詣し、ふと”人の生涯の空しさ”を感じたからです。
 その帰路にも、不思議なことがありました。
 赤磐市の熊山地区にかかった時、急に初めての道を通って見たくなり、脇道にそれて坂道を少し登った所に、「史跡;8代将軍”足利義政”の供養塔・正室”日野富子”の墓」の看板があるではないですか! 「えっ、あの有名な女将軍”日野富子”は、こんな田舎で生涯を閉じたのか?」と思い、足利家に纏わる”先祖の因縁なのか?”と、供養塔と墓にも立ち寄りました。(「常念寺」という尼寺に墓があります。)
 こんな不思議な因縁から、今日のブログに足利家の”不運な貴公子”を紹介させて頂いたのです。(簡単に説明)
 さて、足利尊氏の嫡男には、長男・直冬;次男・義詮(2代将軍);三男・基氏がいましたが、長男の直冬は、母親が越前局といい、身分の低さを口実に、当初はなかなか認知を受けることができず、次男の義詮ばかり可愛がっていました。
 若き頃、鎌倉・東勝寺の居候となっていましたが、尊氏の室町幕府開幕後上洛して認知を求めましたが冷遇され,叔父「足利直義」の養子となって”直冬”と称しました。それでも左兵衛佐に任官され、紀伊の南軍討伐に功を立て,翌年には長門探題として西下しましたが、その後、擾乱が勃発して熊本に逃れ、尊氏・直義の一時講和により”鎮西探題”に補任されました。
しかし、その後,直義が暗殺されると尊氏との関係は決裂。長門に脱出したのち,一転して南朝軍に下り幕府に対抗しました。直冬党の一部が京都を占領,義詮父子は近江に逃亡したのです。直冬は入京し、東寺に居陣したものの,尊氏方の反撃により、わずか2カ月で京都を放棄,以後は安芸(広島)辺りにあって時氏の庇護を受けました。
その後、大内弘世,山名時氏の幕府帰参により基盤を失い,貞治5/正平21年12月を最後にその消息は途絶えたとされています。しかし、地元の記録では中国地方山間部を流浪し、安芸国を経由して石見国(島根)矢上郷に土着(地頭職の娘を正室に)したのです。でも身を隠し、父親の尊氏に反抗したのか、源氏とは逆の「平 直景」(石塔が残存)と改名して隠遁生活。”波乱の多い”生涯を”静かな田舎”で、余生を過ごしたそうです。
 実に「直冬の生涯」は、ドラマや小説にすると面白いでしょうね。
その子「勝貞」も、足利の姓を捨て、地頭職の姓を承継してきたのが、私の大先祖(父方)として系図に残り、「県史・町史」と「姓氏家系大辞典」に掲載されています。(戦国時代まで地頭職が続きました。)
昔の人は”波乱”が多い”数奇な運命”を辿った人は多いのです。
この”数”という不思議な意味があるので、姓名判断ができるのですよ。儚い季節を現す「直”冬”」の字体を使用していなかったら、もっと違った人生になり、逆に子孫の私など、この世に生存していなかったかも・・・知れませんね?。
(この「直冬」の生涯は、「徳川家康」の次男「結城秀康」が2代将軍になることはなく、3男の「秀忠」が将軍となった境遇に似ています。[第350回08.6.20]を再読してください。)





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